<< レッド | main | カラスのお告げ >>
思考のカタチ

写真学生の頃、師から「そこでもう少し待てば良い写真になったのだが・・」と私の写した写真を見て、そう指摘したことがあった。

カメラを持って街を歩きながら写していくことに対して、師の言う、もう少し待てばその風景にふさわしい人物がそこに現れるかもしれない、あるいは光線の変化によってもっと良くなるかもしれない、という意味に私は捉えていたと思うが、一度写した被写体を更によくするために何度も写していくと、最初のショットよりも良くならないという経験を何度も繰り返した。

 

   ---自分は何を求めているのか---

 

 他にも師からこういう指摘を受けた。「なぜここまで粒子を荒くするのか」「なぜ大型カメラを使ってまで写す(粒子をきれいにする)必要があるのか」と。

続けて浴びたふたつの言葉に若かった私はただ途方に暮れるだけだった。

 

 「待つ」という言葉とその行為は今も大切にしている。そして粒子の振り幅が極端な写真を提出して、その問題を師が指摘したことは、今ではどういう意味だったのかはよく分かる。

 「待つ」ということを今はこう解釈している。自分のイメージの範疇のものだけを待つことだけでなくそのイメージを超えた何かを待つということだ。日頃から準備していた思考のカタチがイメージを超える何かに熟成し、行為はその現れを促す時間のことなのだ。

 粒子の問題にしても、いつものカメラといつものフィルムでなぜ最善を尽くせないのかと言ってくれたのである。若い君は、今それをやることに意味があるのだと言ってくれたのである。

 

 今私は、「普通」とは何なのかを求めて、そこに思考のカタチを置いている。

 

 

| - | 15:55 | - | - |